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前回の中川ゼミで発表した計算過程の詳細を追う。1/f^αゆらぎのFourier変換とかFBMやFGNの定義にかかわることを少々。ただ、式変形が追えない…。リファレンスをかき集めて読もうとするんだけど、どこが対応しているかどうもわからない。う〜ん、なぜだー。カオスセミナー4日目。日に日に時間がかかるようになってきたが、ついに今日は大幅なスピードダウン。まぁ、こっちも式が追えなかったと。なかなか手詰まりが多くてやになっちゃいます。(でも、がんばります。)
昨日、夏の学校の希望講師の選出をした。私は、①大野義嗣②中村修二③山本義隆の三氏を希望。個人的には、小泉人事顔負けのかなりいいセレクションをしたと自負しているんですが、読者の皆様いかがでしょう?今日早速そのレスポンスが先輩のSさんから返ってきて、ちょっと満足。かなり異色でしょう?
勉強について。私は大学の学部時代に教職課程を履修していた。そのときにある先生が「勉強とは、勉め強いるものだ。」とありがちな字からの説明を加えていただいた。私はどうも「勤め強いるもの」の「強いるもの」というのが腑に落ちなかった。「強いる」というのは、「強」制的にということだ。私の教義では(また、日本国憲法にも)学問は自由であるべきはずだが、それを強いるとは何事だと、そこに違和感を感じていたのだ。
当時(正確には島田先生に会うまでは)、私の頭には研究という概念が無く、学問≒勉強と捕らえていた。今思うのは、学問には、習得する(すでに知られていることを学ぶ)ということと創造する(誰も知らないことを説明する)ということの二つの立場(二面性)があり、前者は勉強にあてはまり、後者は研究であり個人的には自由であるべきものということになる。(当然、はっきりとした分類は出来ないかもしれないが、この差は大きい。)なんでいきなりこんなことを言い出したかというと、前者には強いることが必要であるか、そのさじ加減はどうするかということを思い当たったからである。
ちょっと前までは、趣味といえばテニスぐらいなもので、それも週に一回。それ以外は、勉強と研究の時間に充当させていた。ただ最近になって、原付を買ったり、Macを使い始めたり、今日なんかはグローブを買いキャッチボールをした。どうも学問以外に費やす時間が増えてきた気がする。人間、よく自分の進んでいる道を意識していないとあらぬ方向に行ってしまうもので、よくよく意識していないとなかなか思うようにいかない。特に私の場合はそうで、気づいたら「あぁ、研究進んでねぇよ」とか思うわけである。それでは意識的にするべきこととは何か、私のその一つの答えは環境を整えることである。前にも似たようなことを並べたので説明は控えるが、例えば、自分で自分を研究をやる環境に追いやるとかそういうことである。自分で自分を追いやるというのは、半ば強制ではあるが、これは自立(一般には自律)するということで少し性格が異なるものだと思う。もしそれが出来ない場合は、他から強制を受ける必要があるかもしれない。
結論だが、学問には二面性があって、簡単に分けると研究と勉強とになる。勉強は、自分で自分を追いやったり、他から強制されることが必要なようで、共通の構造として「勉め強いる」ということになる。しかし、その匙加減は難しいよな。こういう風にちょっと身の回りが変わったときに、ちょっと意識してやるのが必要なのかも。以上、自分への戒めでした。
昨日、夏の学校の希望講師の選出をした。私は、①大野義嗣②中村修二③山本義隆の三氏を希望。個人的には、小泉人事顔負けのかなりいいセレクションをしたと自負しているんですが、読者の皆様いかがでしょう?今日早速そのレスポンスが先輩のSさんから返ってきて、ちょっと満足。かなり異色でしょう?
勉強について。私は大学の学部時代に教職課程を履修していた。そのときにある先生が「勉強とは、勉め強いるものだ。」とありがちな字からの説明を加えていただいた。私はどうも「勤め強いるもの」の「強いるもの」というのが腑に落ちなかった。「強いる」というのは、「強」制的にということだ。私の教義では(また、日本国憲法にも)学問は自由であるべきはずだが、それを強いるとは何事だと、そこに違和感を感じていたのだ。
当時(正確には島田先生に会うまでは)、私の頭には研究という概念が無く、学問≒勉強と捕らえていた。今思うのは、学問には、習得する(すでに知られていることを学ぶ)ということと創造する(誰も知らないことを説明する)ということの二つの立場(二面性)があり、前者は勉強にあてはまり、後者は研究であり個人的には自由であるべきものということになる。(当然、はっきりとした分類は出来ないかもしれないが、この差は大きい。)なんでいきなりこんなことを言い出したかというと、前者には強いることが必要であるか、そのさじ加減はどうするかということを思い当たったからである。
ちょっと前までは、趣味といえばテニスぐらいなもので、それも週に一回。それ以外は、勉強と研究の時間に充当させていた。ただ最近になって、原付を買ったり、Macを使い始めたり、今日なんかはグローブを買いキャッチボールをした。どうも学問以外に費やす時間が増えてきた気がする。人間、よく自分の進んでいる道を意識していないとあらぬ方向に行ってしまうもので、よくよく意識していないとなかなか思うようにいかない。特に私の場合はそうで、気づいたら「あぁ、研究進んでねぇよ」とか思うわけである。それでは意識的にするべきこととは何か、私のその一つの答えは環境を整えることである。前にも似たようなことを並べたので説明は控えるが、例えば、自分で自分を研究をやる環境に追いやるとかそういうことである。自分で自分を追いやるというのは、半ば強制ではあるが、これは自立(一般には自律)するということで少し性格が異なるものだと思う。もしそれが出来ない場合は、他から強制を受ける必要があるかもしれない。
結論だが、学問には二面性があって、簡単に分けると研究と勉強とになる。勉強は、自分で自分を追いやったり、他から強制されることが必要なようで、共通の構造として「勉め強いる」ということになる。しかし、その匙加減は難しいよな。こういう風にちょっと身の回りが変わったときに、ちょっと意識してやるのが必要なのかも。以上、自分への戒めでした。
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