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更新が一日ずれ込んでしまった!実は、昨日のボルバキアという細菌名がどうも思い出せなくって。細菌Bじゃ、ちょっとダサいし。言葉に弱い。理系です。
さて、今日は物性研ゼミ。相変わらずの強相関ゼミで今日はFriedel(?)の総和則について。このゼミに出ていてよく思うが、字面を追う(数式を追う)のは、なかなか楽しい。ただ、そこに物理的な解釈が入ってくると、なかなか大変だ。まぁ、物理はそういう解釈も伴って「理解した」と言うべきであると思うが、字面を追うだけでも満足してしまうときがある。それが問題だ。昨日の中川先生とのゼミで痛い目を見た原因も実はそこにある。論文を読むのに、ただ字面を追っていただけで、そこに物理的なイメージが伴わなければ、具体的なイメージのある方々の質問にちっとも答えられない。というか、分かってないと思われるだけだろう。与えられた数式に対し、自分勝手に解釈を付け加え、納得したら進むというのがこれまでの私のパターンで、書いた人の意見をしっかり汲み取ろうという気があまり無い。基本的にはこのスタンスは大好き(ときにいかんと思う)なのだが、それで暴走してしまってはもともこもないときがある。おそらく大事なのは、「なんかよくわからんぞ」と思ったときに、「これはわけわからんなー、意味無いこと議論してんじゃないかー」とか済ませるのでなく、「これ訳分からんけど、もう一度作者の書いたことを忠実に(!)汲み取ろう」ということかな。ただ俺は、わりと自分流テキトー解釈が好きだからなぁ。(あぁ、そうか、だから俺は文系教科のテストの点が低いんだ。)
進路に関するetc。いや、ちょっと時代の古い人間を印象付けるために、進路にまつわるetc。としておこう(分かる人は分かるが極めて無意味 カニカニってな具合で) 今日はメッセでN大の同期のA氏、メールを介しN高のN氏と意見を交わす。まぁ、主に渡欧に関する話題ですな。Aは、学部卒で就職。現在コンピューター関係の仕事についている。一方N氏は、学部卒後NGOに所属し、現在パレスチナにていろいろと活動中の模様。A氏との話題で頭に残っているのは、進路選択の際にやるべくは、「想像の翼を広げる」と言うこと。どうもうまく相手の言いたいことを汲み取れなかったが、情報収集し、将来の自分像をいろいろあれこれ想像するのが大事であると理解した。いろいろあれこれとは、なるべく最低な状態と最高の状態をあわせて考えると言うことらしい。今まで私は、場当たり的に進路選択をこなし、それが案外いい選択で来ている気がする。ただ、今後も結果オーライ的に行くともしれんので、やっぱ分岐点に至っては考えねばならんだろう。持論としては、情報収集→考える→相談するのサイクルで、おそらくA氏の視点では、考える→想像するというのが必要だろうということだろう。想像することの見返りがいかほどかわからんが、間違ってもいなそうだ。いかん、今日は長くなりすぎている。N氏からのメールを読むと、なんかよくわからんが内容に関係なく勢いがつけられる気がする。相手の近況を知ることから、自分のやる気が出てくるのかなんなのか。バカやってる友達を見て元気が出るのかなんなのか。ノスタルジックに浸れるからいいのかなんなのか。よくわからんけど、相談事って実は返ってくる内容に関係ないのかもしれないなぁ。ただ、意味があるのは相談するって行為のみだったりして。いずれにせよ、やっぱ友達って財産だなって思う。それにしても俺はいい友達にめぐり合えている気がする。
今日のゼミで福井先生が言ったテキストの内容に対して「(理論的に)汚い」といったのが印象的だった。俺は字面を追っているだけでも、生物よりもずっと「すっきり」説明できているなと思っているのに対してまったく反対の意見が返ってきた。言われてそうかも知れないなと思った。物性の内容は、言わば量子力学の応用に当たる。さればこそ、量子力学の理論枠組みに比べれば、物性理論の枠組みは「汚い」と感じるのであろう。物の性質を理解しようがため、摂動でも近似でも数値計算でもなんとしてでも量子力学と統計力学をつかって解いてやろうというスタンスだ。「汚く」なってしまうのは仕方ない。一方私の視点では、生物にはなんら秩序だった物理の理論体系がない。それに比べ、物に対し理論を組み立て、現象を説明している。対象に対して確固たる理論からそれを説明している意味で物性はすばらしいのであって、それがまだ生物になされているわけではない。その意味で、物性は「きれい」だと思った。いや、どっちもあってる認識だと思うんだけど、捕らえ方が違うという意味で面白いなと。でも、福井先生の話を聞くと、あぁやっぱり場の理論もありがたいものだなとつくづく思う。
久々にスゲー書いた。ちょっと疲れたな。
さて、今日は物性研ゼミ。相変わらずの強相関ゼミで今日はFriedel(?)の総和則について。このゼミに出ていてよく思うが、字面を追う(数式を追う)のは、なかなか楽しい。ただ、そこに物理的な解釈が入ってくると、なかなか大変だ。まぁ、物理はそういう解釈も伴って「理解した」と言うべきであると思うが、字面を追うだけでも満足してしまうときがある。それが問題だ。昨日の中川先生とのゼミで痛い目を見た原因も実はそこにある。論文を読むのに、ただ字面を追っていただけで、そこに物理的なイメージが伴わなければ、具体的なイメージのある方々の質問にちっとも答えられない。というか、分かってないと思われるだけだろう。与えられた数式に対し、自分勝手に解釈を付け加え、納得したら進むというのがこれまでの私のパターンで、書いた人の意見をしっかり汲み取ろうという気があまり無い。基本的にはこのスタンスは大好き(ときにいかんと思う)なのだが、それで暴走してしまってはもともこもないときがある。おそらく大事なのは、「なんかよくわからんぞ」と思ったときに、「これはわけわからんなー、意味無いこと議論してんじゃないかー」とか済ませるのでなく、「これ訳分からんけど、もう一度作者の書いたことを忠実に(!)汲み取ろう」ということかな。ただ俺は、わりと自分流テキトー解釈が好きだからなぁ。(あぁ、そうか、だから俺は文系教科のテストの点が低いんだ。)
進路に関するetc。いや、ちょっと時代の古い人間を印象付けるために、進路にまつわるetc。としておこう(分かる人は分かるが極めて無意味 カニカニってな具合で) 今日はメッセでN大の同期のA氏、メールを介しN高のN氏と意見を交わす。まぁ、主に渡欧に関する話題ですな。Aは、学部卒で就職。現在コンピューター関係の仕事についている。一方N氏は、学部卒後NGOに所属し、現在パレスチナにていろいろと活動中の模様。A氏との話題で頭に残っているのは、進路選択の際にやるべくは、「想像の翼を広げる」と言うこと。どうもうまく相手の言いたいことを汲み取れなかったが、情報収集し、将来の自分像をいろいろあれこれ想像するのが大事であると理解した。いろいろあれこれとは、なるべく最低な状態と最高の状態をあわせて考えると言うことらしい。今まで私は、場当たり的に進路選択をこなし、それが案外いい選択で来ている気がする。ただ、今後も結果オーライ的に行くともしれんので、やっぱ分岐点に至っては考えねばならんだろう。持論としては、情報収集→考える→相談するのサイクルで、おそらくA氏の視点では、考える→想像するというのが必要だろうということだろう。想像することの見返りがいかほどかわからんが、間違ってもいなそうだ。いかん、今日は長くなりすぎている。N氏からのメールを読むと、なんかよくわからんが内容に関係なく勢いがつけられる気がする。相手の近況を知ることから、自分のやる気が出てくるのかなんなのか。バカやってる友達を見て元気が出るのかなんなのか。ノスタルジックに浸れるからいいのかなんなのか。よくわからんけど、相談事って実は返ってくる内容に関係ないのかもしれないなぁ。ただ、意味があるのは相談するって行為のみだったりして。いずれにせよ、やっぱ友達って財産だなって思う。それにしても俺はいい友達にめぐり合えている気がする。
今日のゼミで福井先生が言ったテキストの内容に対して「(理論的に)汚い」といったのが印象的だった。俺は字面を追っているだけでも、生物よりもずっと「すっきり」説明できているなと思っているのに対してまったく反対の意見が返ってきた。言われてそうかも知れないなと思った。物性の内容は、言わば量子力学の応用に当たる。さればこそ、量子力学の理論枠組みに比べれば、物性理論の枠組みは「汚い」と感じるのであろう。物の性質を理解しようがため、摂動でも近似でも数値計算でもなんとしてでも量子力学と統計力学をつかって解いてやろうというスタンスだ。「汚く」なってしまうのは仕方ない。一方私の視点では、生物にはなんら秩序だった物理の理論体系がない。それに比べ、物に対し理論を組み立て、現象を説明している。対象に対して確固たる理論からそれを説明している意味で物性はすばらしいのであって、それがまだ生物になされているわけではない。その意味で、物性は「きれい」だと思った。いや、どっちもあってる認識だと思うんだけど、捕らえ方が違うという意味で面白いなと。でも、福井先生の話を聞くと、あぁやっぱり場の理論もありがたいものだなとつくづく思う。
久々にスゲー書いた。ちょっと疲れたな。
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